神仏しんぶつ分離ぶんりにゆれた輪王寺りんのうじ

これは何?
 これは明治10年(1877年)の、さん仏堂ぶつどう移転いてん工事の様子をうつしたものです。三仏堂はこれまで二荒山ふたらさん神社のところにあったのですが、神仏しんぶつ分離令ぶんりれいによって現在の場所にうつされたのです。
神仏分離令って何?
三仏堂の移転工事
 明治めいじ新政府しんせいふは、天皇てんのうを中心とする政治を進めるため、神道しんとうを国の宗教しゅうきょうとして位置づけ、全国の神社を整理せいりし直そうとしました。そのため、これまで神仏がいっしょに祭られてきたのを、はっきりと区別して分けようとしたのです。日光山は、明治4年(1871年)に県から神社と寺の敷地しきちの区別を明らかにし、神社の敷地内から仏堂などをすべて移すようにとめいじられました。
神仏分離はどのように進められたの?
 県の役人が立ち会って、建物だけでなく彫刻ちょうこく祭礼さいれいの道具などまで、神社のものか寺のものかを調べました。その結果、二荒山神社境内けいだい東照宮とうしょうぐう境内とされた地域から、三仏堂、相輪塔そうりんとう鐘楼しょうろう本地堂ほんじどう五重塔ごじゅうのとう護摩堂ごまどう経蔵きょうぞうなどを、輪王寺(当時、満願寺まんがんじ)へ移すよう命じられました。しかし、輪王寺は寺の所有地を大幅おおはばにけずられたうえ、本坊ほんぼうが火災でけてしまったり、諸大名しょだいみょうしていたお金が返してもらえなくなったりしたため、移転の費用ひようが用意できず、二度にわたって延期えんきを願い出ました。
輪王寺の建物はどのようにして守られたの?
 神仏分離令は、各地で仏教ぶっきょう排除はいじょする廃仏はいぶつ毀釈きしゃくにまで発展はってんしてしまい、新政府も行きすぎを反省し、方針ほうしんを変えることになりました。輪王寺の財政ざいせい事情じじょうが苦しく、移転の延期を願い出ていたことが結果としてさいわいしたのです。また、近くの住民たちも日光町民全体の生活問題であるとして、連判状れんぱんじょうをまとめ、落合おちあい源七げんしち巴快寛ともえかいかんらが県や国に日光山の現状げんじょう維持いじを願い出ました。こうした働きかけのかいあって移転は相輪塔と三仏堂だけにとどまり、移転費用として明治天皇より3000円(現在のお金で6000万円くらい)が下賜かしされました。こうして三仏堂は無事移転され、昔からのすがたを今に伝えることができたのです。